おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

その時歴史が動いた・箸墓古墳(1)

 箸墓古墳程、常に話題の中心にある古墳はないと思う。その理由は、この古墳が大和にある前方後円墳で最も古い形を示しているためである。築構年代を考慮に入れれば超一流の王侯貴族の墓と考えられ、一部学者は天照大神や卑弥呼の墓ではないかという説を発表している。その根拠となる理由は、あの有名な魏志倭人伝の中の文書である。卑弥呼は長寿で、八十六歳の頃南方の狗(く)奴(な)国(こく)との戦争の最中に死亡し埋葬された。その墓は円墳で径一○○歩である。

「卑弥呼以死大作家(つか) 径百余歩(一八○メートル)殉葬者奴婢百余人」

と倭人伝の原文は示している。

 しかし箸墓古墳は前方後円墳である。その後円部分の直径はちょうど一八○メートルで一致する。古墳の後円部は埋葬に使われた。前方の部分は祭器を置たり葬儀参列者のために突出した平らな台地である。時が過ぎ、後年の古墳隆盛時代に墓を飾るために前方部が補築され現在の形となった、とこの古墳を卑弥呼の墓だと説くその学派は理由づけている。
 経済・政治においても同じと思うが、今日の科学の分野で、主張する考えの基礎となる資料の選択は人により千差万別である。だがその年期の表現、荒唐無稽な森羅万象の記述から日本書紀、古事記を慮外のものとして全く無視し、それを当然の習わしとして他の超古代文書を一顧だにしない現在の傾向を大変残念に思う。このような姿は[邪馬台国大和説の確証がほしかった。箸墓古墳の後円の直径が一致した。大和説を強く信じる余り、早まって発表してしまった] その様な事情によるのだと私には思えてしまうのである。古事記・日本書紀(以後記紀とする)、また古伝四書の一つの秀真伝にも、箸墓古墳は倭迹迹曰百襲姫(やまとひひももそひめ)の墓とはっきりと記されているのだ。

 戦後歴史教育が根本から改められ天照大神、邇邇(にに)芸(ぎ)尊(みこと)の天孫降臨等は全て教科書から消えてしまつた。戦前教育を受けた高齢の方には神武天皇東征時の長髄彦の抵抗等は共通した知識として話を進めたい。神武側にとって緒戦は大変な苦戦で、兄の五瀬尊、稲飯尊,三毛入野尊が戦死し、そのため一旦軍をまとめ紀伊半島を迂回し、伊勢湾から日を背負って大和に攻め込み、天照大神の加護のもと八咫烏・金鵄の助けにより賊軍を平定し、畝傍山の麓、橿原の地に宮を建立し人皇第一代の神武天皇になられたと戦前の歴史は教えている。


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 その時歴史が動いた・箸墓古墳 目次
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9

 木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について 目次
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10
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