おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

その時歴史が動いた・箸墓古墳(3)

 実のところ記紀には二代より九代までの記述が非常に少ない。皇后の家系と生んだ子の名前、更には他の妃とその子供の名前、天皇の薨じた年月日、その墳墓の場所は各代にわたり詳しく記録に留めているが、他の記述が全く無いのである。地震・風水害の天災や外敵のこと、作柄がどうであったか、それらを全く知ることが出来ない。大和朝廷のその初期は全く基盤が弱い王権で、天孫降臨以来の譜代の豪族により辛うじて継承を繋いできた感じである。

 記紀の編纂百年前、聖徳太子と蘇我馬子が国史編纂に際し、これらの事実を省き当たり障りのない骨格のみとした。記紀編纂に際しても同じことが問題になった筈である。折からの唐との不仲もあり、弱みを露呈するのを避けて同じ歴史とした。これを記載がないからとして色々な疑問が次々と大きく成っていく。筆者は欠史八代に対しそのように考えている。時代を元に戻し大物主家について少し述べてみたい。

 天孫降臨は実は二組あった。邇邇芸(ににぎ)尊(みこと)に先立って、兄の奇玉火之明饒速日尊(きしたまほのああかりにぎはやひみこと)が、忍穂耳尊(おしおみみこと)より十種の神宝を授与され河内に降臨している。天から降りたのでない事は明白である。当時日本一の平野は大和盆地であった。火之明尊の初めの宮殿は御諸山の麓、今の大三輪神社のあたりであったと思われる。大和開拓の祖として人望が集まり、やがて大三輪神社の祭神となり大国魂神と云われていた。長髄彦の妹が神武東征時、奇玉火之明尊の後継者の正妃であった。長髄彦としては高天原の正当の王権は大和である、と至上の意識があった。上古の時代では末子が相続するのが常である。神武側の邇邇芸尊は末子であった。故に正当の王権は我にありとの大義名分があり、これが乱の主な原因になったのである。
 大和の王権は神武に大和を移譲し、物部連として家臣の礼をとった。大物主家も神武東征とともに大和に移り、同じ御諸山の近くに居を構えた。(つづく)


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