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◆神武以前三代記 瓊瓊杵尊―彦火々出見尊―鵜葺草葺不合尊 |
第2章 瓊瓊杵尊の足跡(その5)
さて此の花咲く哉姫の生んだ三つ子の男子の話に戻ります。瓊瓊杵尊は長い新田開発の旅の間、北陸では梅の花、近江では桜、鵜川では卯の花を頭に指して巡幸しました。我が三ツ子の男子が燃える部屋の火や煙から這いだした事にちなみ、火の名を付けて諱としようと言われ、始めの児は火明諱(ほのあかり)梅(うめ)仁(ひと)、次は桜に因み(ちな)火進諱(ほのすすみいみな)桜木(さくらぎ)、末は卯の花に因み彦火火出見諱(びこひひでみいみな)卯津(うつ)杵(きね)となりました。酒折の宮に新殿をつくり、乳母は雇わず母君の乳で育てたそうです。此の伝えが大民に知れ渡り此の花咲く哉姫は次第に子安の神と讃えられる様になります。桜木尊はアレルギー体質だったのでしょう、水瘡が次次出来て酢(す)芹(せり)草(くさ)で吹き出物を治しました。父君はこれを喜び桜木を酢芹宮と変えます。白髭の酢芹草はこれにより民間薬として広く代々伝わりました。又、瓊瓊杵尊は原見山に登りその美しさから藤山と呼び、その後富士山と次第に名前が変わったそうです。富士山は隣国、晋では蓬莱山と呼ばれ不老不死の山草が有ると言われ、晋の始皇帝はその薬草を得たく、何度も船団を日本に繰り出したとする伝説が広く伝わっています。最近ではその真実性が高まりシンホジュウムが日本で開かれました。日本ではハラミ三草と言われ酢芹草・ラの花・それに千代見草です。この草は苦く汁にして飲むのも、食べる事も出来ない代物でしたが、天照大神には好物で、秀真伝の記述から推測すると90歳代迄生きられた様に思われます。千代見草について完訳秀真伝に詳しく述べて有りますので其れを記しますと、『ハラミ三草のハオ菜を食べれば千代を得ることが出来る。その若い菜も同じ効用がある。若菜も苦いが、成長したハオ菜は百倍も苦く千代の寿命を延ばすと言えどもその苦さは到底食べる事は出来ない。ハオ菜の根は人の形をしていて、葉は野菊の様で花びらは八枚である。ラ草は葉が桑のようで血を増し、老いの体を若返らせる効用がある。これで蚕を育て糸を作る事が出来る』と記されています。
弥生時代の日々、新田も増え、稲作も普及して平穏な時が流れて行きますが、ある日、日高見の忍捕耳尊から、会って話したい事があると連絡が有りました。瓊瓊杵尊と兄奇玉火乃明尊が共に多賀の宮に参内すると、父忍穂耳尊は「私は年老いてもう長くはない様だ。それ故に最後の言葉として聴いてくれ。今日より兄火乃明を飛鳥(あすか)治(を)君(きみ)とする。弟瓊瓊杵を原治(はらを)君(きみ)とする。共に睦みあい、兄弟で力を会わせて国を治めよ。しかと聞け、大民を我欲で左右してはならぬ。民有っての君である。田は大民を育てる根であるぞ。君は邪心なく二心が有ってはならぬ。瓊瓊杵は鏡の神となり日嗣の君となり民を守り育め」。
父親とすれば2人の兄弟どちらも可愛い筈です。しかしよく兄弟は他人の始まりと云います。二人の兄弟を比べると、秀真伝の記述から弟の瓊瓊杵が悠(はるか)に総明で行動的の様に思われます。祖父の天照大神は瓊瓊杵尊を重要な後継者としていました。並み居る家臣たちにもその様に思われていたのでしょう。将来必ず争いが起こる。これが父忍穂耳君の心配の種だったのでしょう。忍穂耳尊は間もなく逝去します。今、芦ノ湖畔にある箱根神社の祭神がこの忍穂耳尊です。父君の三年の喪がすぎ、再び新田の開発が盛んになります。大田命に広い沢を掘らせ、津軽では沼から灌漑用水を引き田を作ります。天児屋根命は奈良三笠山に川・小山を作り今の形にしました。伊吹戸主命(天照大神の弟月読尊の子)は天山に宮を移し田を整備します。飛鳥君も宮を香久山に移し、速瀬川を掘り変えて飛鳥川とし、その淵に田を造成し、又、自身の名を飛鳥治君から香久山治君と変えます。お妃の清田姫が「昔大物主から『宮を一夜にして飛鳥に移せと』命じられとことを諫言をされ、民からも誹りをうけ、お祓いをして掘割を宮の周りに掘り今日まで来たのです。その事を忘れれば徳のある君とは言えません」と申されましたが、火乃命はこれを無視「政治にあれこれ言う女が何処にいる。女は児を産む田であるのに児が生まれない。妻としての資格が無い」と立腹され、その日の内に離縁され、豊窓命の娘初瀬姫がお妃として召されました。古言に【児無きは去る】の言葉が有りますが、子種の障害は現在では検査で解り、男側であることも多く、昔の男子の理不尽さを考えさせます。大山祗(おおやまつみ)命(のみこと)(此の花咲姫哉の父)は酒折の宮より相模の小野に宮を移し周囲に新田を起こしました。厚木市小野には相模川支流の玉川があり1000分の1の地図で見ますと水田に適した地系であった様に思えます。隣の伊勢原市の大山には大山詣でで有名な大山阿夫利神社があり、山の中腹にある下社の祭神は大山祗命となっています。しかし日本神社百選の解説では、【昔石尊社と云い、その別当寺を大山寺と云っていた。明治の神仏分離令により現在の名称になったと考える。創建時は不詳】と記されていますが、創建は此の記述より神代の昔に遡るかもしれないと考えます。日本武尊の東征にもこの相模の小野が出てきます。尊の軍が火攻めにあい全滅の危機にあった時叔母倭姫より授かった天(あめの)叢(むら)雲(くも)の剣で草をなぎ倒し、逆に敵軍を火攻めにして難を逃れた所が現在では静岡県の草薙と、この厚木の小野の二か所比定されていますが、秀真伝ではこの小野として詳しく記述されています。当時小野に砦としての館があり、主の橘元彦が日本武尊の東征軍に反抗する事に反対したため、周囲の賊軍に包囲されていました。尊の軍は激戦の後砦を解放します。砦の橘元彦の孫娘が弟(おと)橘(たちばな)姫(ひめ)で、この後、浦賀水道で身を海に投げて龍神の怒りを鎮め一軍を救った話は有名です。(この章終わり)
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