波堤神は住吉神の系列の神で海運・造船・港の埠頭や防波堤を作る今で云うゲネコン集団の長でしょうか、当時既に労働職種が専門化し始めていたと考えます。塩の満ち干を自在に熟(こな)す玉とは此の事を示すと推理が走ります。志賀神とは福岡市近くの志賀半島の豪族でしょう。山咋命は山林の伐採の奉行に当たりましょうか。 『待ちぢ』は待たれよと、安物の釣り針でないか、 の意味をかけた言葉で、物語の裏を巧みに表現した秀真伝の記述者の力量で、数多くいた秀真伝の草創文の解説者の中の一人が後年の付け足しではないかとも考えられます。 更に時代の背景を探って推理を進めます。何かの話に似ている、読まれている方の中には気付かれているかも知れません。思いだして本棚の奥に仕舞い込み、ここ二十年程目も遣らず、やや埃の付いた吉川英治全集34巻を取り出して、新・平家物語の義経の鞍馬山脱走の部分を読んでみました。平泉の豪商金売り吉次、吉次は姓を金沢と言い元家臣で当時の日本全国、京、熊野、大阪、更には瀬戸内、北陸、を股にかけ奥州の金を財源として平泉の必要とする物産を豊富に送り込み、京に劣らぬ華やか繁栄を藤原氏に齎(もたら)した今は商人とはいえ、秀衡が最も信頼する重臣に匹敵する人物でした。吉次が商売に行く諸所の四方山話は秀衡(ひでひら)の最も興味がある、将来の夢にも繋がる心が弾む世間話であった筈です。鞍馬山の小輩牛若丸の話は度々出たことでしょう。「その小倅(こせがれ)を攫(さら)ってこれないか」、酒の上の話しか、しらふの席での話か不明ですが、「私にお任せあれ」と吉次は胸を張ったと新 平家物語では書かれています。 時代は総て平家の思いのままでした。しかし、至る所に源氏の残党は息を凝らし、土に潜り、再起の機を窺っていたのです。京周辺にも源氏の残党は土蜘蛛の如く蠢いていました。吉次の計画はそんな簡単なものではなかったのです。身を預けられた鞍馬寺では戒律を守らず仲間の学僧からは苛められる毎日が続きます。それでも悲しむことも怒ることもなく、身は機敏で、まるで猿の様に木立の上を渡り歩き、奇人なのか、爪を隠す鷹なのか、計りしれない未知の塊、それが大きな魅力でもあったのです。決起には指令塔が必要です。昔の軍の連隊旗の如く心を高揚させ戦うため、己を無と迄も落として心の奥を鼓舞するする源氏の嫡流の血、牛若丸を必要とする組織が至る所にいたと思います。それら組織との戦いを吉次は潜り抜け足柄を越え、坂東の地の今の浅草の浅草寺で九郎義経(熱田神宮で元服している)に逃げられてしまいます。義経の心の中で秘めているものは奥州よりも坂東で自身の思いで存分に振る舞いたかったのでしょう。結局は吉次の輩下の手配で平泉に行き着くのですが、秀衡が吉次に依頼したのも同じく未知の将来に託す投資あったと思います。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||