百科事典のサクラの項目に白子の不断桜が天然記念物として大正12年に登録されていると記載されている。木花咲哉姫が白子の宿屋の庭に植えた桜がその後大切に管理され成木となり、世紀を継いで人間同様今の世まで代々存在すれば・・そんな夢に等しい幻想が頭によぎる。松本善之助氏も生前白子を訪れ、著書にその状況をのべている。白子の桜は厳重に管理され、やがてその地は聖域となり神社となった。仏教が渡来次第に普及し本地垂迹・神仏習合思想により、隣接する寺院が建てられ別当寺となった。仏教は栄え社域を浸食する。江戸時代を通じ幕末まで世情の信仰の対象は一に仏であり、神は遥か下の信仰の対象であった。木花咲哉姫の子安信仰は前述の如く安産・育児の神であり、その形態は多様で子安観音・子安地蔵・子安稲荷など他の信仰と複雑に結合し、主に既婚夫人の間で構成された子安講が庶民の行楽を兼ねた流行になったと私は思っている。 壮大な堂宇が建つ寺の聖域の片隅に未だに何代目かの桜が生き残り、小さな祠ほどの神社の傍らの桜を見たいと時々思っていた。木花咲哉姫と浅間神社・子安神社の関係の題目の随筆の末尾はこの白子の桜で締めくくりたい。今年こそ白子に行こう。 「異常気象という言葉は使いたくないが、今年は異常気象でした」。先日の気象庁の会見ではそんな言葉が聴かれたほど暑く蒸して一日一日と延びて、暑さがやや薄らいだつい先ごろ、近畿・東海・関東の広域の集中豪雨の中、日帰りで白子に出かけた。 白子町は昭和17年に他の三町村と合併し鈴鹿市となった。近鉄名古屋線が旧白子町を縦断し近鉄特急の停車駅で、尚往古の風格が諸諸に残り社寺も多く、伊勢平氏の水軍「白児党」の発祥の地と云われている。参宮街道の宿場町・港町として繁栄した。今も白子と鼓が浦駅の間の街道沿いには多くの宿が残り独特の風情が残ると云われている。白子駅で急行電車を下車、各駅電車で一つ先の鼓が浦駅へ辿りついた。駅前から旧街道と思われる小道に沿い目指す観音寺の前に出た。想像していたより遥かに重厚な良く整備された寺院であった。山門は二天門で元禄拾六年建立、立ちが高い楼門である。天平勝宝年間の開山で千二百年以上の歴史を誇る名刹である。寺伝によるとこの浦に間々鼓の音がし、人々が網を下ろして調べると鼓の音と共に観世音の尊像が上がり人々は瑞喜した。此の事が時の帝、聖武天皇のお耳に達し、伽藍建立の勅願寺となった。この浦を鼓が浦と今も呼んでいる。浜から尊像が上がり本尊として神社・寺院が建立された。よく聴く縁起話ではあるが。まだ若い誠実味溢れる御住持は、白衣観世音(びやくえかんぜおん)の安産・子授け・子育ての霊場として広く浸透した【観音妙智力 能救世間苦】の深い信仰を熱を込めて私に語りかける。
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