釈迦の教え仏教は紀元前三世紀全インドに広まった。その後ガンダーラ地方で勢力を蓄えた後、西域から広い中国・高麗・新羅に伝わっていた。かなり古い時期から半島の仏教は日本にも伝わっていたが、公式の伝来は欽明天皇七年、他説では十三年とされている。 日本書紀、欽明天皇十三年十月に百済の聖明王が使いを使わして釈迦仏金銅像一体・幡蓋若干・経論若干巻を天皇に献上した。又、文も添えて、広く広め礼拝すれば新たな功徳が有ると褒め推奨している。「この教えは諸々の教えの中で最も優れていると申せましょう。難しくて理解できず、周公も孔子も遂に深達出来ませんでした。この教えには何処まで学べば終わりと云う限はなく、その報いの決まりもありません。そして深い信仰が人々を浄土の世界、仏道の悟りに導くのです。この妙法は心の宝であり、ただ信じる心が有ればそれに優るものはありません。天竺に発し三韓にいたるまで信仰する人はみな法を尊ばない人はおりません。百済の王、聖明は謹んで使いを持って君に献ます。貴国の機内に広く流布される事を望んでいます。その経の一つ大般若経には『私が死んだ後五百年たってここから東北の国に広く伝わるであろう』と仏は述べています。故に、私は此の教えを貴国に伝え責任を果たしたいのです」。天皇はこの使いの言葉を聞いて小踊りする程喜こばれ、使いの者に「太古の昔より我が国でこれ程貴い教えを聞いたことはない。しかし私だけの考えで今直ぐに決める事は出来ない。王には深く感謝します」と述べたと記録されている。天皇は群臣を集めてその意見を広く訊問する。蘇我大臣稲目は、「教えを受け入れた西の国は皆一様に敬っているのに、我が国だけが駄目だとする事が出来ましょうや」と答える。物部大連尾興と中臣連鎌子は「わが帝が天下に君としておりますのは、常に天地にまします神社の百八十の神々を、春夏秋冬祭り祈っているからです。今改めて他国の神を祀り拝すれば、国神の怒りをかう事になりましょう」。蘇我氏にとり百済は特別の国であった。その百済からの教えでもあり、また、群臣から抜け出し、天皇の関心を得るには又とない機会であった筈だ。賛成は蘇我氏だけであったのか、「では願う人、蘇我稲目宿禰に授けるとする。試みに教えを信じ敬ってみよ」と決まった。大臣はこの許しを大変に喜び小墾(おわり)田(た)の家に仏像を安置して信心半分、出世の欲の半分で精進する。向原の自分の家まで清めて寺とする程であった。一年半後、疫病が流行し、百姓その他がバタバタと死に、日毎にその数を増してくる。物部尾輿と中臣鎌子は「先ごろの臣らの意向を深いい考慮もなく異教を崇拝した結果が此の災害です。直ぐに元に戻せば平穏の日々に帰ります。いち早く仏像その他を投げ捨て、厄を払いのけるのが良策と思います」と進言する。天皇は「其方らの考えに任せる」と言う。これにより仏像を浪速の堀江に流し捨ててしまう。さらに稲目の寺を焼き尽くす。間もなく風雲もないのに磯城宮の宮殿が火災で焼けてしまう変事が起こり人々は暗澹とする。十五年の五月、泉郡から、高脚の浜で妙なる音がし、その音は遠く響いて雷の鳴るようでございます。と報告がくる。溝辺直を使わして海に入り調べると光輝く楠木が浮かんでいる。是を持ち帰り匠に作くらせて(霊異記には蘇我馬子がつくったとする)二体の仏像を吉野山に献じた。これが今吉野山に有る楠の仏像である。 欽明朝は三十二年の間の記録ある。その間日本史上に特筆すべきは十七年の百済聖明王からの正式な仏教の布教の委託であり、又の大事は二十三年春、新羅が任那(みまな)の宮家を滅ぼしたことである。大陸半島の農耕技術の発展、人口の増加など高麗・新羅・百済・任那が互いに相接し交流と軋轢の繰り返しで、欽明朝はそれに干渉したりし、仲立ちを依頼されたり振り廻はされ続けたと言ってよいであろう。新羅は老練であった。なん度も使者が来朝し硬軟を使い分け朝廷を翻弄し、任那を滅ぼし、やがて百済も常にその辺境を侵された。日本書紀には微に入り細に入り軍船や騎馬軍の動き、軍卒を統率した臣連の名を記録しているが蘇我臣の名は出てこない。蘇我氏の名は主に内政に関する事に限られている。十七年七月蘇我大臣稲目を備前の児島郡に使わして屯倉を置いた。田令は葛城山田直とした。同十月、蘇我大臣稲目を大和の高市に遣して韓人大身狭屯倉、高麗人小身狭屯倉を置く。紀の国に海部屯倉を置く。とある。三十一年三月蘇我稲目が六十五で死んでいる。三十二年四月十五日天皇は大病になった。遠旅にいた皇太子が呼び戻され、天皇はその手を握って「私は長くはない。後の事を汝に申し付ける。新羅を討て。そして任那を再興しろ。その国と夫婦の如く互いに慈しみ合って昔に帰れば、私は喜んで死んでいく」天皇は間もなく死去する。卒年ははっきりとしない。 つぎの天皇は敏達天皇で欽明天皇の第二子であった。此の天皇は仏教を信じなかった。欽明に二十九年に皇太子となり。四年後に父欽明の後を継いだのである。宮を百済大井に置いた。物部弓削守屋大連を同じ大連とし、蘇我馬子宿禰を大臣とした。此の文より此の時まで馬子は臣であり大臣に格が上がったのであろう。書紀敏達紀の初めに目立つ記録があるので紹介しょう。話しはこうだ、高麗からの使いが着ていたが先帝の逝去で敏達帝はその後の何の沙汰もしていなかった。天皇は其れが気になっていたのであろう。敏達は皇子の時に息長広姫を妃としていて彦人皇子が生まれていた。その彦人皇子と蘇我大臣に「高麗の使者は今何処にいるか」と質問した。「欽明三十一年高麗の使いが風波のため航路を誤り港を求めて漂流、越の岸に流れ着いと聞きましたが郡司はこれを隠し報告せず何か隠している様子です」と、越人江淳臣裙代が都にきて報告する。欽明帝は「高麗の使いは道に迷って初めて越しの岸に辿りついたのだ。水に溺れ死にそうになっても助かった。出来る限りの事をして、今どうなっているか労わって、館を相楽に建て休養させ体力の回復を計れ」と命令する。それ以後の指示は帝の病気その他で沙汰やみとなっていた。敏達天皇は其れを思い出したのだ。馬子は未だ相楽におりますと答える。天皇は驚き同情して早速使いを相楽の館の送り、持参した貢物を調べ記帳する。高麗の使いが持参した国書を馬子が読むが解らない。諸臣にも問うが三日も経ってもだれも解釈できない。しかし船史臣の祖王辰爾だけがすらすらと読み下し、天皇と馬子はその業を褒め讃えたという。高麗の国書が読みにくかったのはそれがカラスの羽に書かれ、黒くて字が見えづらかった為であった。王辰爾はその羽を湯気で蒸し、その上に上質の絹を押しあてて字を写し取ったのだ。是を知って並み居る書士達は「なんだ、そんな事か」と大変悔しがったという。何かコロンブスの卵の話を思い出す。更にこの話は続く、高麗の大使は副大使らに「先の敏達天皇の時、私の意向に背き、国の代表だと名乗る者に安易に貢物を渡してしまった。これは失策であるぞ、もし帰り、わが国の王がこれを知ればお咎めが有るかも知れぬ」と詰問する。副使らは此の事を話しあい、「国に帰り若し大使がこの不始末を王に明らかにすれば、我我は懲罰にかけられる。その前に大使を殺してしまおう」と陰謀する。この謀略は大使に露見する。大使は変装し寝処を抜け出し館の中庭に立つが、族人一人が現れて杖で大使の頭を一撃して去る。又、族が現れ大使の手と頭を打って退く。大使は痛みに踠き苦しむが尚立って顔の血を洗っていると、又、族が現れ、刀で腹を刺して去る。大使は倒れ殺さないでくれと拝む。又、族が現れこれを殺す。翌日役人が来てその様子を問いただす。副使らは「天皇が大使を労って女性を下されると言われた。しかし大使は貴いお心に逆らい其れを断ったのです。私らは天皇に不謹慎と考え大使を殺しました」と答える。係の役人は儀礼をもって大使を墓に葬ったという。この年の七月に高麗の使は母国に帰って行った。 敏達三年十月蘇我馬子を吉備の国へ派遣して白猪の田部を増設する。 敏達四年、敏達天皇は妃の息長真手王の娘広姫を皇后とする。二月の馬子が吉備より帰りその成果を報告する。新羅が任那を再建しないのを皇子と大臣に新羅に強い態度で臨めと改めて命じる。十一月広姫皇后が死去する。群臣は敏達天皇の異母妹で欽明天皇と蘇我稲目の娘堅塩姫との間の額田王女(後の推古天皇)を後妻の皇后にすすめ、正式に決まった。 蘇我氏が一世を風靡する時代の黎明であつた。十一年七月、日本が態度を硬化したのを感じとり、新羅が調を送る使者を送ってきたが、其れを納めることなく送り返した。新羅との交渉はなかなか進まない。その間馬子の仏教への信仰をより広く活動を活発にしている。十三年馬子宿禰は仏像二体を作らせて鞍部村主司馬達らを広く四方に使わして、仏の修行者を募らせる。播磨の国でただ一人還俗僧の恵便が応じ、馬子はこれを師とし司馬達の娘を尼にさせた。此の尼は善信尼と云う。善信尼に二人の弟子を付ける。馬子はこの三人の尼を敬い衣食住を賄う者を付ける。仏殿を自分の館の東に作り石の弥勒像を安置して、三人の尼を呼んで盛大な会を施行する。馬子は又、石川の宅内にも仏殿をつくる。仏法の布教の体制が始まった。更に十四年の二月蘇我馬子宿禰は塔を大野丘に北にたて、司馬達らがインドより得た仏舎利を塔の芯柱に納め節会を盛大に行った。その月二十四日に馬子が病に倒れる。占うと、父稲目がまつった仏像の祟りだと出た。占い師を使わして天皇に奏し、稲目をよく祀るよう詔勅がでる。馬子はこの詔勅に拠り公式に石像を拝み、吾が命を救い給えと礼拝する。三月、物部弓削守屋大連・中臣勝海大夫は天皇に奏し「何故私どもの意見を聞いて蛮教を辞めさせないのです。前帝の頃より続き、今もって疫病が流行し人民の大方は死んでしまいます。これは皆蘇我馬子が異教を広めようと企んでいるからでしょう」と強く訴える。天皇は「極めて明白ならば、仏教を辞めよ」と言われる。三十日物部弓削大連は寺に行き、床几に座り足を揺すりながら、塔を倒させ火をつける。又、仏殿を焼き仏像もやく。仏像は堅く芯が残る、守屋は憤懣やり方無く残った芯をも浪速の堀川に捨てる。この日は雲も無いのに風が強く雨が降った。守屋は雨具を着、馬子とそれに従い異教に携わった者たちの刑罰に移る。佐伯御室を使わして善信尼達の連行を命じる。馬子は泣いて反抗し、尼達を佐伯身御室の預け保護を求めたのであろう。尼達は法衣を剥がれ縛りあげられて海石榴市の亭で鞭たたきに刑に処せられた。此の一方天皇は任那再建を実行に移すため、坂田耳子王子を使者に命じるが、その矢先、天皇と守屋大連が相次いで疫病に罹った。疫病は天然痘であつたとされている。天皇は任那の事は先帝との約束でもあり必ず実行に移す意志を示すが、自身の病のこともあり使者に派遣は沙汰やみになった。疫病は益々猖獗を極め、その全身の痛さに「身を焼かれ、打たれ、砕かれるようだ」と泣き叫び死ぬものが続出した。人の噂は無責任でペラペラと広がる。疫病が広まると異教を信じた為だと噂をし、尚、続くと仏像を焼いて捨てた祟りだと口ぐちにいった。その夏、蘇我馬子は「私の病気は今もって治りません。仏教にすがりその力で治すしか道はありません」と天皇に直訴した。天皇は「汝一人仏に頼れ、他人を誘う事はならぬ」とこれを許し、謹慎していた3人の尼を馬子の元に送りかえす。馬子は大変喜び、頭を床に擦り付け拝んだ。新たの寺を立て尼達を向かい入れて養った。8月天皇の病は高じ宮殿にて遂に逝去する。殯(もがり)の宮(みや)を広瀬に建て葬儀執行の次第に、蘇我馬子が弔辞を述べた。馬子は小柄の人であった様だ。そのため大きな刀が目立ち、矢が当たったスズメの様だと守屋は笑った。物部守屋も弔辞を読む時に緊張の為か、何かの神経疾患か手先が震えて止まらない、鈴を付けるとカラカラと鳴るぞと反対に馬子は笑い返したと書紀に記されている。蘇我と物部の対立は両氏が他に抜きんでて大豪族である事により最早他人の干渉の域も無く、その対立は決定的局面に達していた。
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