おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

◆蘇我太平記
    第五章            丁未の役
 四天王寺縁起には守屋の居宅が難波に三か所あったと記録されているが主となる館は不明である。物部守屋の近従捕鳥部萬が百人の部下で難波の館を護っていた。この館に彦人皇子がひっそりと身を隠していたらしい。馬子の軍兵はこの彦人皇子を委細構わず殺害する。任務を終えた第一軍は難波側から守屋の裏手を突く。第二軍の大部隊は志紀郡より竜田越えをして渋川阿部の館に攻めかかる。物部守屋は自らの子弟と、養っていた奴隷を軍兵とし稲城を築いて戦う。守屋は絹揩にあった大きな榎の高い枝間に登り指揮、高いところから矢を雨霰と射て寄手に大損害を与え、守屋の軍は家々に満ち野に溢れ士気は盛んで進攻軍に攻めかかる。馬子軍は恐れ戦き三度も退却する。この戦いに後の聖徳太子の廏戸皇子も参戦していた。未だ十四歳の少年であった。この少年が蘇我氏の危機を救ったと書紀は述べている。その時少年は白(しろ)膠(ぬり)木(で)と云う木に四天王を刻み額の上に翳して全軍の前に立ち「我に仏の加護あり」と味方を鼓舞したと述べられている。[今若し我をして敵に勝たしめ賜わば、必ず護世四王の為に寺塔を起立てむ]と誓いを立て、全軍の総攻撃を仕掛けたのである。
 津田左右吉氏は知る人ぞ知る戦前の日本において、堂々と日本書紀を批判した書籍を出版した早稲田大学の教授である。その中で氏は金科玉条とされていた書紀の記述に対し、ここがおかしい、ここの理屈が通らない、意図的に歴史を紛らわした、などと発表したのである。当時の国是に反する言論は当然激しく弾圧された。たとえ教授であろうと、その様な言動は身に危険が迫る事は十分に承知するところであろう。それを意識した上の氏の勇気は大いに礼賛すべき事と思う。しかし、その論文の中で十四歳の少年に戦いの枢機を挽回する程の力が有る筈がない、とし更に厩戸皇子が参戦したとするには太子を神聖化する為の捏造ではないかとまで津田氏は論理を飛躍させている。十四歳の少年でもその力が有るはずだと、何かと単細胞的考えしがちの私は視野を変えた考えを展開してみたい。その証拠は何かと訊かれれば何もない。しかし、その可能性はある。それは敵の後方撹乱である。利に動きやすいのは人の常である。現在四天王寺にある四天王寺区は物部氏の経済的地盤の中心地であった。大陸方面から来た移住者は騒乱が続く半島を避け、安住の地を求めて九州、更に瀬戸内海、その突き当たりは琵琶湖の水、大和川の水が海に出る難波の地であり、大和朝廷との関係を求めて古くからこれら移住の人の密度が高い地域であった。その集団に対し古代からの神道を重視する物部氏が野放図に信仰の自由を許す筈がない。信仰の自由を与えよう。その証として大寺を建立する。他年求めていた利権も与えよう。その代わりとして後方よりの武力蜂起を促したのでないか。この発案が太子から出たとしたら・・・。

 上述の津田氏に関する文脈は、以前、私が他の出版書に述べた文の丸移しである。念の為に申し上げる。山尾幸久氏の述べる第一軍は敵の後方、難波に直行したとの説は何か私の考えに類似するようにも思われる。
 厩戸皇子の舎人が中臣勝海を斬殺したと前文で述べたが、この渋川の戦いでもこの舎人迹見首赤檮(とみのおびといちい)が又又大手柄を立てる。全軍の総攻撃の間中、舎人の一隊は先行し、榎の大木の上にいて指揮を取っていた物部守屋を狙い射落し、守屋は転落して絶命する。また守屋の子も迹見の急襲で戦死、物部軍は総崩れとなった。軍兵の殆どは家人や農奴が着る黒色の平服で平民を装い一帯の広瀬の広場に散りじりになって隠れこみ、狩をしている仕草で逃げ去った。人の噂は無責任に広がるのは常のことだ。この物部の予想を越えた負け戦を、物部守屋の妻は蘇我馬子の妹だから、馬子は守屋の妻から秘密の情報を聞きだし、守屋陣営の行動は馬子側に筒抜けだった、と言いふらした。此の戦闘の後、摂津の国に約束通り四天王寺を作り、大連の輩下のあった奴と家の半分を、その地にある大寺の農奴や小作として整理した。大殊勲を立てた迹見舎人には褒賞として私田約三町三反が贈られた。
 
物部大連氏は代々警察・司法を司り、代々神武以来皇統に仕え、治安制御にその権力は絶大であった。しかし、その力は時の天皇家のものであり、物部が勝手に動かせるものではなかった。それに息の係った兵力は広く地方に分散し、短期間に兵力の結集は不可能であった。蘇我氏は経済を支配する大蔵畑を主に手掛けていた。平素から畿内豪族に脈を通じ万事怠りがなかったのであろう。老練の馬子が、単純で一種のお人良しで、物の白黒を単純に判断する守屋に対し、一日の長があったのでないかと考えている。
捕鳥部萬は先に述べたが彦人皇子を難波の館で護っていたが、其れも空しく皇子は殺されてしまった。馬子側の後継候補であったが守屋に傾いた事が馬子の彦人皇子評価を味方から敵に代わらせ処罰の対象となってしまったのだ。萬は身を隠し再起の機を窺っていたのであろう。守屋が阿津の館で打ち死にしたと聞き、馬に乗って夜陰に乗じて難波より逃れ、我が家に寄ったのち山に隠れてしまった。泊瀬部皇子、後の崇峻天皇は並み居る軍兵に「萬は尚敵意を抱いて危険極まりない。彼はこの山に隠れている。早く彼を成敗してしまえ。油断するでないぞ」と下知をする。萬が纒う着物は綻び破れ、垢に塗れ、顔は憔悴し、弓を持ち剣を帯びて単身群兵の前にヌーと現れる。それーと、隊長は数百の部隊をだして萬の周りを取り囲む。その兵の多さに萬は竹藪に隠れ、縄を竹に結び遠くから竹を動かして己がそこに居る様に見せかけ、その箇所に兵たちが集まり萬を探しているのを狙い、矢を連射して次から次と射止める。追跡隊は恐れをなして尻込みし萬に近付けない。萬は其れを見て弓弦を外し、脇に挟んで山に向かって逃げ去る。追手は其れを追い、川向うに逃げた萬を矢でしきりに射るが、どれも外れて当たらない。追手の中の兵士の一人に足が速い者がいた。萬に気付かれぬように先回りにして、川の傍らに身を潜め、弓に矢をつがい、萬の膝を射ぬいたのだ。萬はその矢を抜き、弓を張り矢を射返す。地に倒れ伏し尚大声で叫ぶ「萬は彦人大兄の盾として、その勇士の極みを表はさんと自分から出てきたのだ。それを問答無用と声も掛けず、この仕打ちは何だ、寄って集って我をこの窮地に陥としいれた。我と思う勇士はいないのか。我が殺すかお前らが我を捕らえるのか、勝負をしよう」兵士らは一斉に矢を萬に浴びせかかる。萬は刀で矢を払い落し、矢で追手の兵士三十人を殺す。腰の刀でその弓を三に切り、その刀を押し曲げて川の深み投げ入れ、腰に帯びた別の小刀で己の首を刺して自害をする。河内の国司は萬の死業の一部始終を朝廷に報告する。帝はその様を真の勇士と感じ愛でたのであろうか、感状を下附し、「この符を八折にして裂き、串に刺し高く掲げ広く人々に知らしめよ」と申されたと伝えている。国司はその通り感状を切り刻むとき、俄かに雷が鳴り、大雨が降ったと云う。萬が可愛がって飼っていた白犬がいた。身を屈めたり立ち上がり空を仰いだりを繰り返し、萬の骸の周りを回って吠え続け、萬の首を食いちぎって古い墓に隠し、その傍らに身を横たえて遂に餓死をしたという。河内国司はこの話を聞き、大変に奇異のことと思い、帝に再度言上した。帝はこの話に大変に感動されて涙を流し、「この犬の仕草は人も及ばぬ主に対す忠節の極みであろう、後世に残し範とすべきだ。萬の家族に伝え、墓を造って共に菩提を弔う様にさせよ」と申されたそうだ。この許しを聞き萬の遺族は萬の墓とこの白犬の墓を有真香邑に造り共に弔ったと記されている。

用命天皇の崩御が四月、その年の八月、炊屋姫と群臣は泊瀬部皇子を後継の天皇として正式に決めた。崇峻天皇である。蘇我馬子宿禰を大臣とし、その下の議政官らは全く変りなかった。今の桜井市倉橋に紫垣宮が造営された。崇峻天皇は運命を背負った天皇と云えるのでないかと思う。欽明天皇は皇后と多くの妃の間に十五男、八女のお子がお有ったと記録されている。母の小姉君は蘇我稲目の娘で、崇峻は欽明帝との間の五番目の子供であり、後継天皇には最も遠い距離にいた皇子であった。用命天皇の皇太子は敏達天皇と息長広姫の間の彦人皇子で、血筋・人望などで蘇我馬子らは早くから次の帝位の第一候補として挙げていた。蘇我・物部氏の権力争の対抗馬として玉は落ちるが守屋側は穴穂部皇子を候補としていた。用命天皇の病の悪化がはやく、守屋側はこのままでは不利になると彦人皇子・それにまだ幼い竹田皇子を自身の陣営、物部・中臣側に取り込む事を画策した。しかしこの極秘の策略は馬子側にもれ、前述した如く中臣勝海は彦人皇子の宮を出たところで馬子側の刺客に不意を突かれ斬り殺される。馬子は彦人皇子が守屋側の勧誘に心が動いた様子を心よく思わず、ついには己の敵と見なし、守屋の難波の館に密かにいた彦人皇子を殺し、穴穂部皇子とその友の宅部皇子も殺す、最早自身で抑制もきかず日頃の鬱憤を血と血の塗り重ねで晴らす馬子を想像する。馬子と小姉君は兄妹であった。つまり崇峻は馬子の甥であった。他に多くの後継天皇の適格者がいるのに皇位から遠い自分を選んでくれたことを、崇峻は恩義に感じ、以後なんでも馬子の云う通りに動かせると目論んでいたのでないか、と穿った推測で馬子をみるのが普通であろう。
宿敵を倒した蘇我氏に今や対抗する敵はなく、全てが順風満帆であった。百済にとっても隣国の大和で、広く仏教の普及を図る蘇我氏が全ての実権を握ったことは、将来に安心と期待が持てる朗報であった。その為か相次いで百済から使節が多くの僧を伴って来朝する。大和に渡って布教により自身の身辺を固めたい希望の僧が多く使節に同行したのであろう。僧恵総・令斤・恵 らは仏の舎利を献上した。舎利は釈迦の頭蓋骨を意味するが実の所は水晶の玉であった。百済は更に恩卒首信らの吏氏を来朝させ調を献上し、再び仏舎利を奉納し、僧聆照律師ら六名、寺工、寺院の相倫をつくる鋳造技術者、瓦博士、画書も一緒に来朝し寺院の建立の指導を申し出た。善信尼達が渡海して真の戒律を受けたいと前より申し出ていたが、今回、百済の使史恩卒首信らにつけて戒律の修行のため百済に一緒にいかせた。馬子は次々と積年念願としていた事項を実行に移す。飛鳥衣縫造(あすかいぬぬいのみやつこ)の樹葉の家を壊しその跡地に法興寺をたて、地名を飛鳥の真神原と変える。又の名を苫田ともいった。崇峻二年、天皇はいよいよ自身の天皇としての抱負を実行にうつす。近江臣満を東山道に派遣して蝦夷との境を巡視させる。宍人臣雁を東海道に派遣し東の海沿いの国々との境を巡視させる。阿部臣を北陸道に派遣し越との境を巡視させた。大和王権の威光を示す意図であろう。三年、善信尼達が百済より帰り桜井寺に入る。十月、法興寺を大寺とするため山の伐採が始まった。物部氏の没落による安心感の表れであろうか、畿内の豪族は雪崩を打って仏教への帰心を明かにする。大伴連の女善徳、大伴小狛の夫人、新羅姫善妙、百済姫妙光、漢人善聰・善通・妙徳・妙定照・善智里氏・善智恵・善光達である。また司馬達の子多須名も出家する。崇峻四年四月、敏達天皇の陵墓は定まらなかったが磯長陵に埋葬し、母の欽明天皇妃の石姫と同じ所で長い安住の地が定まった。八月、天皇は群臣を前にし「朕は任那(みまな)を再興しようと考えるが如何に思うか」と問うと「新羅に滅ばされた任那宮家を再興すれことは臣らとて同じでございます」と答える。十一月、天皇はこれを実行に移し、紀男麿呂宿禰、巨勢猿臣、大伴齧連、葛城鳥奈良臣、を大将軍に命じ、氏氏の臣連を連が神の部隊、臣が部の部隊として二万の大軍を筑紫に進行させ、ここから敏達天皇の妃広姫の
父吉士金を新羅に使者として遣はした。又、吉士の重臣を任那に遣はしてその後の任那の状況を視察させた。
 此の月に大法興寺の仏殿と回廊が完成した。

 蘇我氏に競う相手は最早いない。崇峻天皇を馬子の一存で帝の位に押し上げた事は群臣達の周知の事実であった。その崇峻が次々と国家の大事となる決定を、馬子の意向を尊重し同意を得ることを無く、実行に移したのでないか、馬子と崇峻の間に隙間が出来ても不思議ではない。以後馬子は崇峻の言動に強く干渉を入れってくる。天皇とは名ばかりの鬱鬱賭した日々、若い崇峻天皇の不満が高まるのは当然であったと思われる。そこが我慢のしどころであった。己の心の底を見せず耐え忍ぶ術が必要であった。己を過信し、つい油断する。若さ故の不注意であろうか。書紀にはその経過が詳しく記している。
 崇峻天皇五年十月四日、山猪が献上された。書紀には天皇、猪を指して日はく『いつの時かこの猪の首を断つる如く朕が嫌しと思うところの人を断らん』とのたまう。多くの兵仗を設けること常より異なる事ありと述べている。この話は六
日後の十月十日にすでに馬子に伝わっている。馬子からすれば多くの周囲からの反対を押し切って天皇に据えてやった皇子である。にもかかわらず何たる放言と顔を真っ赤にして怒るのも次元を低くして考えれば理解が出来る。十一月三日東の国から大量の貢物が届きその受け取りの儀式を兼ねた作業があった。天皇はその儀式に参列することになっていた。馬子は東漢直駒に命令し、宮中で天皇を殺し、その日のうちに倉梯岡に埋めてしまう。馬子に密告したのは大伴連から出て天皇の傍に仕え、身の世話をする小手子であると書紀には本文ではなく参考副文として記録している。天皇の寵愛が衰え見向きもされないのを恨み、供の者を馬子のところに使いにやったとしている。天皇を凌ぐ権勢並びない蘇我馬子であっても白昼宮中で在位の天皇を殺す大事をやってのけた事に、当然駒との密命が噂となり、やがて公然の事実として広まってしまった。馬子は駒に何かと気を使っていたと考えられる。「大臣はこのわしに頭が上がらない」と駒は周囲に粗暴な振る舞いが目立ち、ついには馬子の妾川上姫に手を出し自分の妻としてしまう。馬子は川上姫が突然に行方不明になった真実を知り、怒髪天を突き、駒を捕らえ殺してしまう。口封じの為もあったろう。
 額田部炊屋姫は欽明天皇の第二女であった。母は正妃の堅塩姫であり蘇我稲目の娘である。容姿は美しく、振る舞いも整い品があり、平たく言えば、才媛であり佳人であった。敏達天皇の息長広姫が夭折し、後の皇后として敏達天皇に嫁いできたが三十四歳の時、敏達天皇が疫病で逝去、政情混乱の末崇峻天皇が後継となるが、五年後に馬子のため暗殺される。皇位の継承には群臣の臣・連の権勢争いが根底にあり必ず荒れた。しかし今回は天皇が暗殺され非常の事態であった。他年の宿敵であった物部本家が滅び、間の緩衝が無くなり、蘇我氏と天皇家の二頭が向き会うことになる。炊屋皇后には敏達帝との間に竹田皇子ガ居たが、この時すでに死亡か、病弱であったか、書紀には記載がなく不明である。馬子は物部守屋との争いに勝利した最大の功績は厩戸皇子にあると考え、後継候補としていたと思う。厩戸は父用命も母穴穂部皇女の蘇我氏の出であり、蘇我血脈の真っただ中で己の手足となり動いてくれると期待していたと思う。年はその時十九歳、少し若いが十分に資格があった。考えられる反対者は炊屋皇后である。実は炊屋皇后と敏達帝との長女は厩戸皇子に嫁いでいたが、既に死亡したか何かの原因でもあろうか記録も少なく不明である。反対の理由がその辺りに有ったのでないか。厩戸が未だ若い事もあり群臣は一致して炊屋皇后を後継者の中継として皇位を継ぐ様に幾重にも要請し、最後にそれを受諾したのである。最初の女帝推古天皇の誕生である。補佐役として厩戸皇子が重責を担う事となった。これが名高い聖徳太子である。


 蘇我太平記 目次
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9
その10 その11 その12

 木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について 目次
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10
その11 その12 その13 その14 その15 その16

 その時歴史が動いた・箸墓古墳 目次
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9