おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

◆蘇我太平記
      第六章        推古天皇と聖徳太子
その年の十二月八日、推古天皇は正式に豊浦宮で天皇の位を継ぐ。翌年の正月、法興寺の塔芯柱の土台に仏の舎利、即ち水晶玉を埋めた。現代でも多くの重層のコンクリートの建物に定礎などの標識があるが同じ理念が現在に至る標であろう。近年この部分の発掘により、玉のほか、金の首飾りの他に多くの貴材料の装飾品が一緒に発掘され、推古天皇を初めとして馬子、諸々の皇子が芯楚部に潜り永劫の安泰を祈念、証となる身辺の装飾品を献じたことが証明された。皇太子(こひつぎのみこ)となった厩(うまや)戸(との)豊(とよ)聰(とみ)耳(みみの)皇子は用命天皇の第二子である。母は正妃の穴穂部皇女が宮中を諸用で巡視のとき厩の前で産気付きその場で皇子を出産、厩戸皇子と呼ばれることと成ったと記録されている。厩戸皇子は聰明・博識の上大変な好学の士であった。その様な皇子を用命帝は大変にかわいがり宮中の南の上殿に住まわせた。その故に人は上宮厩戸豊聰耳皇子と云うように成った。馬子の意向が強く反映したのであろうと考えるが、この年に九月、先の用命天皇の陵墓を改めて河内の磯長陵に埋葬した。磯長地区には蘇我氏由りの天皇の陵墓が纏まって現存し、推古天皇、用命天皇、聖徳太子、又、敏達天皇も後になりこの地に陵が造営された。石舞台の名で知られる馬子の墓もこの地区にあり、この時代を風靡した蘇我氏の権勢を現在に留めている。推古天皇二年二月、帝は聖徳太子・蘇我馬子に詔をしめし、三宝、即ち仏教を更に興す様に求めた。世は蘇我氏の独裁が不動にものと成っていた。諸々の臣、連は競って君・親の恩思を表さんとして仏舎をつくり是らは寺と呼ばれた。群臣達の仏教への帰心はどの程度のものであったか、信仰半ば、蘇我への諂い(へつらい)半ばが本当のところであろう。馬子に睨まれたら一族の将来はない。諸々の大名・小名が秀吉に屈し、家康に怯え(おびえ)たと同じであろう。更に仏教の隆盛の波は続く。五月十日、高麗の僧慧慈が帰化、聖徳太子はこれを自分の師とし敬意をはらった。又、百済の僧慧聰も来朝した。この二名の僧はその後さらに我が国の仏教の広隆に努め、その祖の聖となった。四年十一月、法興寺の建立が全て終わり、蘇我馬子宿禰は多くの善男・徳臣をその記念の法要に招待し、式典は盛大に施行された。上記の二名の高僧はこの寺に待住する事となる。
倭国の世情は治まり仏教の興隆が国是と成ったことより、百済からの来航が活発になる。推古五年,四月一日、百済王は使者王子阿佐を送り朝貢した。十一月一日に吉士磐金を新羅に使いに出す。六年四月に磐金が新羅より帰りカササギの番い(つがい)二組を献上、この番いを難波の森に離すと、木の枝に巣を作り産卵した。八月に新羅が孔雀の一番いを貢ぐ。推古七年四月二十七日、地震が起こり多数の家が倒壊。地震神の霊を慰める祀りをして祈る。六年八月一日に百済は駱駝一頭、驢馬一頭、羊二頭、白雉二羽を奉る。
 八年二月、新羅が任那を攻め、間に戦闘が始まり任那に援軍を送るため兵の動員が行われた。境部臣を大将軍に任じ、穂積臣を副将軍とする。一万を超える大軍で海を越え新羅を攻撃し、五つの城を攻め落とし新羅の国王は白旗をあげて本陣に来たり、多々羅のほか六の城を削いて従うと申しでた。将軍達は協議の上、新羅が己の非を知った上降伏したのだから強いて此の上の攻撃を続ける事は無意味であろう、と天皇の裁可の有無を仰ぐと天皇は再び難波の吉師神を新羅に全権大使、難波の吉士木蓮子を任那に大使とし、双方からの停戦の条件の合意を纏めさせる。両国の使いは揃って来朝貢物を献上し合意文を奉呈した。「天上には神、地上には天皇が厳然としておいでになります。この二神の他に賢き神などありえません。これより相攻めることなど有りません。年毎に必ず調貢して従服を誓います」天皇はこの誓書を受理、新羅の留まっていた派遣軍に帰還を命じる。しかるに、その直後、又、新羅は任那に侵入した。
 推古九年二月、飛鳥の上宮の聖徳太子は寵愛の妃膳菩岐美女の実家善臣氏の地元斑鳩の今の法隆寺の近くに住居を変えた。既に海外の情報に緊急に対処する事は政治情勢に不可欠の要素となっていた。瀬戸内に近い斑鳩が何かと利点があったのも一理であったと思われる。三月五日には早くも大伴連齧を高麗に派遣、坂本臣糠手を百済に派遣、任那を急ぎ救えと命令している。九年九月新羅の間諜が対馬に潜在した。捕らえ上野の国に追放した。十一月には新羅に進攻の戦略会議が開かれ、次の年二月に来目皇子を総大将として諸々の親衛隊、国造、伴造ら合わせて二萬五千の部隊が編成される事となった。十年四月、来目皇子は筑紫に移り、今の福岡県糸島郡北半に入り多くの船で食糧の調達を始めた。六月になり高麗に使いをしていた大伴連齧(おおとものむらじゆくび)と百済にいた坂本(さかもとの)臣(おみ)糠手(あらて)かえり、筑紫に到着した時には来目皇子は病気で床に伏していて新羅進攻は頓挫の状態であった。十月に再び百済から僧観勒が来朝、此の度は歴の本、天文地理の文、星占いの本を携えてきた。朝廷は三十四人の書生を選び観勒に付けて学ばした。又、高麗の僧隆、雲聰が来朝した。翌年の二月重い病に伏していた来目皇子が死亡、(来目皇子は用命天皇の皇子で聖徳太子の同母弟であった)此の報は早馬で都に報告され、衝撃も大きく推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子を召して「新羅を討つ大将軍が菀じてしまい大事業が頓挫してしまった。大変残念なことである」と述べられた。その後の葬儀、陵墓の構築、埋葬など時間が過ぎる。四月に至って来目皇子の後継の将軍として来目の兄の當摩皇子が選ばれた。當摩皇子は七月に難波より船出、播磨に至るが妻の舎人姫が明石で又逝去してしまう。舎人姫は欽明皇女であった。このため又又新羅討伐は頓挫する。渡海進攻は中止となった。
歴史には事態の急変、意外性が付き物である。若しこの重なる不幸が無かったなら、その後の歴史は今の姿とは変わっていたと思う。よい方向か、悪い方向か私が論じる術も任も全くないが。新羅にとっては幸運であったかもしれぬ。これは任那の放棄を意味し、半島からの我が国の影響力の撤退の始めとも受け止められる。
 十月に宮を小墾(おわり)田(だ)に移す。推古政治は国内の立て直しに方針を切り替えたと考える。
 推古十一年十二月冠位十二階の制が行われた。大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智の十二階である。この階位には蘇我氏は含まれなかった。天皇には元来位が無い。姓名の姓がない。裕仁、明仁、徳仁などである。戦前・戦時中軍部が大元帥陛下と位をもって呼称していたが果たして正式の位であったかどうか。従って天皇は勿論ではあるが、蘇我一族、聖徳太子ら皇族の血縁にもこの官位はなかった。一見聞えは良いが、お前達とは最早身分が違うと、特権階級と其れに従属する官僚の間の身分制度の発足ではないかと私は考えている。ちなみにその官位の例を述べてみよう。大徳 境部臣雄麿・小野臣妹子・大伴連咋子。小徳 中臣連国・中臣連御食子・川辺臣禰受・物部依綱連乙 その他近江臣、平群臣、大宅臣、巨勢臣らである。大仁 鞍作鳥・犬上君・安曇連比羅夫・土師連・上野毛君・湊川勝・矢田部連・膳臣清国ら。小仁 物部連足摩呂。大礼 吉士雄成・犬上君御田耜。小礼 鞍作福利。大信 大部屋栖野古連公。大義 坂上首名連 ・・・と各氏の官位より当時の権力との距離が大体判る。
 蘇我氏が中心となる国家体制は永久に続くと馬子らは確固たる自信の基にこの制度を布令したのであろう。そして次の年、推古十二年に矢継ぎ早に十七条憲法作成している。
書紀には憲法(いつくしきのり)十七条と記してある。中学の歴史で聖徳太子が十七条の憲法を制定したと教えられた記憶があるが、現在でもその様に聴いている。憲は官憲を意味し官憲とは役人を呼ぶのではないかと私は考えている。ではその十七条を次に記述する。

 [一に曰く 和なるを以て貴しとし 仵ふこと無きを宗せよ]皆が知っている出だしの文である。何を偉そうな事を言うかと、思わず呟きたくなる。殺戮を繰り返し、実権を構えれば、仲良くしなければならぬ、決して逆らってはならぬ、と第一の条文に据えているのだ。
[二に曰く 篤く三宝を敬え] 三宝とは仏・法・僧のことである。この教えは萬の国の極宗である。いずれの世、いずれの人もこの教え貴とせずにいられようか。この世に極悪人はいない。よく教えれば従って来るものだ。この三宝なしに如何にして曲がった心を治すこと出来ようか。・・この文を色付のフィルターを通して見てみよう。仏教を信仰せよ、しない者は心が曲がっているから官吏として採用しない。と暗に言っている。

一条・二条は皆が知り試験に出てくる機会も多く大抵の人が知っている。しかし後の条文を知る人は少ないのでないか。第三条以下が問題である。よく目を凝らして頂きたい。

[三に曰く 詔を承りては必ず慎め] 君は天、臣は地である。天は必ず地を覆う。地が天を覆ったらどうなる。故に天皇の言葉には絶対に従わなくてはならぬ。
[四に曰く 群卿百寮 礼をもって本とせよ] 上が礼無き時は下は治まらず、すべての吏が礼を尽くす時に国は自然に治まるものだ。
[五に日く 饗を断ち 欲することをてて 明らかに訴訟を定めよ] 訴訟が増え続けて支障が出ている。だらだらと延ばさず、真剣に取り組め。訴を聞く官が利をえる事を常とし、賄を見てからその申し立てを聞くことが多い。金持ちの訴えは石をもって水の流になげる如く、貧乏人の訴えは水をもって石に投げるに似ている。
[六に日く 悪を懲らし 善を勧めるは古き良き典成り] 人が善功をしている時はこれを人に知らしめ、悪しきことは必ず正せ。
[七に日く 人各々任あり 掌ろこと 濫れざるべし] 賢哲の人が任に就けば、礼賛の声は自然に湧きあがる。心に不純のある人が任につけば禍は多発する。人は生まれながらにして、賢い人はない、懸命に己を磨いて聖となるのである。いかなる大事でも、その任の最適の人が携さわれば、必ず治まるものだ。
[八に日く 群卿百寮 早く朝りて 晏く退でよ] 公事は多く、終日勤務してもまに合わない程である。その上遅く出勤したのでは、急の朝の出来ごとが処理出来ない。早く退室すれば、必要な仕事を残すことになる。
[九に日く 信は是義の本なり] 事の善し悪し、成りならぬも信があるものである。群臣みなに信があれば出来ないものはない。信がなければ万事失敗する。
[十に日く 忿(こころにいかり)を断ち 瞋(いおもてのいかり)を捨てて 人の違う事をいかりざれ] 人は皆心を持っている。彼からすれば我に非あり、我からすれば彼は非である。我は必ず賢ではない、と同時に彼も愚人ではない。ことの善し悪しは一体誰が決める事が出きょうか、自分が正しいと思っても、おごることなく、他人の意見も考えていくことだ。
 [十一に日く 功過を明かに見て、賞し罪(つみな)ふること必ずあてよ] 
 [十二に日く 国司・国造 百姓に斂(おさめ)られざれ] 国に二君はない、民に両(ふたり)の主なし、国全体の民は王をもって主とする。官吏は皆王の民である。そのことをよく考え、収穫の税徴収は正確にしなければならぬ。
 [十三に日く 諸の官の任せる者 同じく職掌を知れ] 病や出張で留守のこともあろうが、留守中のことは知りつくしていなければならぬ。役所にいなかったから知りませんでは済まぬ。元に復帰した日から全てを知りつくしている様にせよ。
 [十四に日く 君民百寮 妬み羨むことあるなかれ] 
 [十五に日く 私を背き向くは 是 臣の道なり] 全ての人は私心ある時は必ず恨み有り、うらみある時は事が成り立たない。滅私奉公を第一とし、私を次とせよ。
 [十六に日く 民を使うは時を以てするは 古のよき典なり] 春より秋は農桑の多忙な季節である。冬の農閑期を当てるようこころがけよ。
 [十七に日く 夫れ事独り断(さだ)むべからず 必ず衆と論(あがつら)ふべし] 小さい事は場合によるが、大きな事は衆議して決めねばならぬ。
 
 各条文の添え書きは、日本書紀記述の添え書きを私の解釈でのべてみた文である。憲とは高い位の官吏を指し、此の憲法は文字通り官吏の法であり、現代風に云えば公務員勤務規範と思うが、諸氏の印象は如何であろうか。十二条を例にして詳しく説明を加えたいと思う。[国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ) 百姓(おおみたから)におさめとられざれ] 国の頭は王である。その王にかしずいている官吏は徴収した税調は全て王に帰属すことを忘れてはいけない。大臣(おおみたから)にごまかされてはならぬ。その様な意味に私には思える。この様な条文が根本となる条文が国是を示す憲法である筈が無いと思う。しかし公務員を戒める条文とすれば全体が耳触りが良く、ぴちぴちとした言葉の連続で今の世にも通用すると思う。ただ大君も司である蘇我氏も、皆の範と成り身を慎もう。その我を見習え。の一言でもあれば公布の規範の意味がより身近に迫り官・民を広く包んだと思うが、官吏だけに強く、自身は一体どうかと批判が生じ、蘇我氏と民の間をより鮮明にしたに過ぎないと思う。
 矢継ぎ早にその年の九月に朝廷内の慣しを変えると詔勅を出す。「宮中に務めのため宮門を通り入らんとする官吏は、手の指を土の面に押しつけ、両脚の膝も地面に付けて跪きながら、門を潜り抜けなければならぬ」この通達を聞く官吏の思いは様々であったはずだ。国古来の神道は影を潜め、仏教の隆盛は更に此の国をその仏の金色一色で覆わんとしていた。日々の糧を得るためには蘇我一族の息の音、顔色を窺う日頃である。聖地に向かう御仏への帰依の深さの証を表す所作の類と同じと、蘇我寄りの人は受けとめ、他方、逆の思いは地に這い頭を下げて通る屈褥感を、骨の髄まで味わう人もあった筈であろう。
 推十三年七月、聖徳太子は諸王・諸臣に褶(ひらおび)の着用を命じた。褶とは袴の上に巻く帯で、衣装をより重厚に見せ、礼服に順ずる用をたす思考であろう。この年の十月に太子は斑鳩の法隆寺に居をうつした。これについては馬子との軋轢を避け、より自由の行動を望んだ為とか、仏教本来の大乗仏教の理念が薄れ、これを本来の教義へ修業を興す足掛かりとする為とも様様の説が有るが、斑鳩の地は最愛の妃の膳菩岐岐美郎女の実家膳臣の地元であり何かと起居に都合の良さ選んだ為だの説もあり、その全てと考えるのが合理的であろう。
  十四年の四月八日、かねてから成作中の丈六の金銅像と布に刺繡をした仏の画像が出来上がった。丈六の金銅像を元興寺の金堂に入れようとするが、堂の戸より像が高くて入らない。諸々の工人は戸を壊して入れるしかないと云うのを、鞍作鳥はなんと戸を一切壊すことなく仏像を堂に納め、その日の落慶法要が無事におわった。数多くの人々が喜び集い、その日を記念して各寺が四月八日、七月十五日に法要を営むことに成った。推古天皇はこれを大変喜び、鞍作鳥を召して「私が仏教を広めようとして仏舎利を求めた時、汝はその舎利を探してくれた。又、汝の父は用命天皇の臨終に同席した時、仏門に入ると決心し無き天皇の菩提を弔ってくれた。又、尼僧の入信を広めた。此の度の丈六仏を入口の戸を壊すこと無く堂内に安置したことは、みな汝の功であるぞ」と言い功績を讃えて大仁の位を鞍作鳥に授け、近江の国に水田二十町を下賜された。鳥は大変に感激し、此の田を資金として金剛寺を立てた。


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