おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について(16)
 
 この寺は木花咲哉姫とは建立當時から何の関係は有りません。聖武天皇の勅願寺で開山以来広く諸民を信仰と支えを受け継いで今日の姿があるのです。私の問いかけへの答えは此の様である。不断桜ももともと此の地に有った物ではありません。桜の脇の御堂もこの寺では一番新しいものです、と御住持は言う。寺から頂いたパンフレットに江戸時代の古絵図が載っていてそれには元禄十六年の二天門が今と同じ構図で描かれている。本堂は重層で高く、富士宮市の本宮浅間神社の本殿にどこか似ている。今の本堂は単層で唐招提寺や新薬師寺の本堂に似た外観は天平の建築様式で、古絵図にある本堂は地震か火災で消失しその後再建されたものであろう。寺域の奥に天照大神を祭司する小さな神明社はあるが、桜の近くには堂などは描かれていない。松本善之助氏が生前此の地を訪ずれた事は前述した。氏の著書の中の関連した文章の詳細ははっきりと覚えていないが。不断桜の脇に神社があつた。うっかり通り過ぎてしまう程小さな社である。しかし延喜式に記録がある古社である・・の意味の文であったと思う。一間四方の寄せ棟作りで屋根の尖頭は擬宝珠で飾っている。前に鳥居はなく、小殿の正面にも扁額など見当たらない。脇の壁には火頭窓が作られていて神社建築としては異例の事である。これは神社ではない。寺域の飾りの為に堂をたてたのでないか。そんな推理がポーと頭に湧いてくる。正面の格子戸の隙間から中を覗いてみた。多分桜であろう、多数の皮を剥いだ太い材質が同じ寸法に輪切りにされ、二・三段に塔状に組まれ、その上に30−40糎程の桜の造花と思われる花が一輪のせてある。これは桜の木を形取った物ではないか。太古より代々続いた桜が枯れ死し、その幹なのではでないか。また推理が頭を駆け巡る。咲哉姫が宿の植えた桜は代々続いた。その脇に神社が建立された。古代よりの延喜式社であった。仏教は栄かえ、神社は世紀の重なりの重さと人の世の塵埃の厚さに埋もれて何時しか消滅した。しかし桜は生き残る。が、それも枯れこの世から消えようとしている。太古の歴史を口伝えに知る里人の有志は。桜の分身が残る観音寺に枯れ木の長い保管を嘆願したのでないか。此の堂内の造形は桜を残す絶好の構図でないか。推理は自由で何処までも走る。理に適うとしても何人も首を縦にも横にも強く振らない。それは私も同様、記録が全くない以上同じである。

 降り続いた集中豪雨も午後には三重では薄日が差す様になった。やはり蒸し暑い。しかし時が止まったような白子の4−5時間は心の癒しであった。しかし東京に帰ると未だ雨。傘を差しても膝から下はずぶ濡れとなった。この雨で明日から涼しさが増すだろうと思う一方で、この冬はとんでもない寒さになるのではと不安が湧く。政治にも気候にも先が見え辛い。加齢の為であろうか、そんな昨今が続く。皆さまは如何であろうか。
                   22.9.20


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その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10
その11 その12 その13 その14 その15 その16

 その時歴史が動いた・箸墓古墳 目次
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