おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

◆蘇我太平記
      第12章  禁中でのクーデター 蘇我氏の滅亡 

  中臣鎌子は王公貴族の間との交流を盛んに試み、蘇我氏を倒し功名を心に抱く気概ある哲(さかし)王(きみ)を求めていた。中大兄に目を付けていたが中々直接に接し、胸の内を語る機会が無くその機を探っていた。偶々飛鳥寺に槻の下の広場で中大兄と蹴毬をする友達と共にその場に行き、蹴毬靴が脱げ飛んできた靴を手の中に捧げ抱き、大兄に傍らに駆けよって差し出した。中大兄は間近に跪きその靴を受け取り鎌子の行為に篤い感謝を態度で示す。機会を得た二人は互いに親交を深め、思う所を語り合う間柄と成り、此の事は他の皇子・郡卿に間に次第に知れ渡る様になった。後に頻繁に会っている事が広く知られ疑いを待たれる事を避け、孔子の教えを説く南淵諸安の門下生として書物を持って通い、その道道で肩を並べて色々と話合い、互いの意見が一致するのを確かめ合った。鎌子は中大兄に「大きな謀り事をするには有力は協力者がいた方が良いと思います。蘇我倉山田麿呂の長女を妃として召し入れる仲人の役を私が致します。婚姻が成立した後、説き伏せ強き味方としましょう。これが一番の近道と思います」と提案をし、皇子はこの策に大変乗り気であった。鎌子は早速山田麿呂に交渉、とどこうり無く仲人の役を成し終えた。所がその婚姻の儀が成立した日、山田麿呂の異母弟蘇我臣日向身刺がその長女を犯してしまったのだ。倉山田臣は此の事を知り憂い恐縮し、どうしたら良いか心配のあまり寝込んでしまった。娘は未だ婚約の話を知らなかったのであろうか、悩んでいる様子の父に問いただす。「心配なさいますな父上、私を妃として皇子にお使はし下さい。私は大丈夫です」と言う。山田麿呂はこれを喜び娘を妃として嫁がせた。中臣鎌子の赤心はその後も変わらず佐伯連子(ここ)麿(まろ)呂(ろ)、葛城稚犬連網太を策謀の同志として皇子に推薦する。六月六日、今の橿原市石川の剣池に一つの茎に二つ咲いた蓮の花の蕾を見つけた。蝦夷大臣は心に何か不穏のものを感じていたのか、それを打ち消す様にこの花は蘇我氏の永遠の繁栄の吉兆だとして、その様を金泥で書き記し法興寺の丈六の大仏に献上した、と記録があるが、画であるか文書としたのかは不明である。十一月に蘇我蝦夷・入鹿の館が高市の甘檮(うまかしの)岡(おか)に並んで完成した。蝦夷の館を上(かみ)の宮門(みかど)と呼び、入鹿の館を谷の宮門と呼んだ。自らの子供を王子と言った。館の周りに柵を作り各入口の脇には兵倉を作り、門毎に水槽と鳶口数十を置き火災の発生に備えた。屈強の兵で常に家を守り、更に近くの山に鉾削寺を造り、畝傍山の東に池を掘り城とした。倉を建てて兵器を備えた。身の周りは常に五十人の護衛が固め出入りした。この健児を東の儐(し)従者(とべ)と呼び、蘇我氏の氏の子弟を館の門に配し、帰化人の漢直が主に二つの門を守った。
 四年の正月、周囲の丘の峰連に、又、河辺に、宮寺の間に猿の群れその数二十余り、鳴き、口を窄んで声を出し互いに合図をしている。近づくと姿を隠す。人々は伊勢の大神の使いあろうと噂をした。木々を取り払い見通しを良くする。その資源で柵を造り砦を築く、生活環境を奪われた猿などが人里に近くに移動して、人家の食糧・作物を狙ったのだと推測できる。六月六日に中大兄は倉山田麿呂臣に「三韓の貢物の贈呈式の奏上文の読み上げ役を致す様に」と命令し、その日に入鹿を成敗する謀りごとを明かした。山田麿呂は「承知しました」と返事をする。六月十二日天皇は大極殿の玉座に座った。古人皇子も同席していた。蘇我入鹿は疑い深く決して油断をしない人柄で、常に身を守る為に太刀を帯び、咄嗟の攻撃に備えていた。宮中には娯楽のために俳優が仕えていた、俳優は冗談を言いながら入鹿に纏わりつき、「三韓の使者が怖がっていますから」とでも言ったのであろうか、入鹿は笑いながら刀を腰から外して大極殿の席についた。倉山田麿呂臣が進み出て三韓の奏上文を読み上げる。中大兄は衛門府に命令をして十二の門を閉鎖して人の出入りを禁じ、衛門府を一所に集め慰労の贈物をする。大兄は長い槍を持ち大極殿の隅に隠れ、中臣鎌子らは弓矢を持って中大兄と共に様子を窺った。箱に隠した刀二本を佐伯連子麿呂と葛城稚犬養連網太に渡して「真っ直ぐに進み入鹿を斬れ」と命令する。子麿呂らは喉が渇き水を飲むが緊張の余り吐いてしまう。鎌子は「落ち付いて度胸を据えろ」と叱責し励ました。倉山田麿呂は上奏文を読み終りに近づくが子麿呂達が現れず、不安の余り冷や汗が顔に流れ、声が枯れ手足が振るえて止まらない。入鹿はこれを怪しんで「なんでその様に震えるのか」と問い正す。「大君の尊顔が間近でございますので、緊張が取れません。身の不覚でございます」と答える。子麿呂達は入鹿の威光が恐ろしく身が振るえて足が前に出ない。大兄はヤアーと大声で叫び子麿呂達となだれ込み入鹿の頭と肩を斬りつけるが失敗。入鹿は驚いて立ち上がる。子麿呂は刀をふりかざし入鹿の足を払う、入鹿はその場に倒れ、頭を床の打ちつけながら怒り「なんの罪でこの仕打ちを受ける。きついお調べを」と天皇に懇願する。天皇は「一体全体この様は何事だ」中大兄は頭を床に擦り付ける様に深く下げ「鞍作は山背大兄を初め次々に殺し天皇の位を狙っています。天孫の位を蘇我に譲る事は出来ません」と答える。天皇は席を立ち黙って奥に入ってしまつた。佐伯来麿呂・稚犬養網太は入鹿を斬り殺す。この日は大雨であったらしい。宮中は雨で浸かり水溜りが至る所に出来たらしい。入鹿の屍には筵が懸けられ一昼夜放置された。古人皇子は私邸に逃げ込み人に言ったと云う「韓人が不満で入鹿を殺してしまった。何と痛ましい事だ」。寝所に籠り門を閉ざして以来出て来なかつたと記されている。中大兄は法興寺に籠りそこを城として反乱の鎮圧に備えた。総ての皇子・王子・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造は悉く大兄に友好的であった。使いを遣わしいて入鹿の屍を蝦夷の基に送り届けた。蘇我氏の盟友で帰化人の漢直らは一族郎党を総て集め軍隊を作り抗戦の意図を示している。中大兄は大将巨勢臣国押を遣わして歴史では初めての君臣一体の意志であるとして漢直の衆に説いて「入鹿林太郎鞍作は我我により処罰された。蝦夷大臣も今日明日にも成敗される事は間違いない。なれば誰の為に勝ち目の無い戦いをして賊として殺されるのか」と言い、太刀を腰から外し弓を投げ捨てて立ち去った。賊は無意味な戦いを悟り軍を解いて退散した。蘇我蝦夷大臣は誅される事を予見して家宝としていた天皇記・国記・その他の珍宝を焼いてしまう。船臣恵尺は焼かれる寸前に国記を持ちだし中大兄に奉呈した。この日蘇我蝦夷とその子入鹿の屍を墓に埋葬する事を許し。又、悲しんで泣く事も許した。深く感じる記録である。
 六月十四日、皇極天皇は退位。御位を軽皇子に譲り中大兄を皇太子とした。

 繁栄を極めた一族は突然旬日を待たず滅亡する事は歴史が伝える所である。例外とすれば豊家であろうか。平民から立ちあがった秀吉の人を丸めこむ異徳の香りが、死後久しく巷間を漂い関が原、大坂の夏の陣、冬の陣と続いた。しかし蘇我氏の滅却は極めて目立つ。一昼夜入鹿の骸は筵を被せられて雨中に曝された。神代と言われる超古代からの連・臣の憎しみがそれだけ強烈だった結果であろうか。蘇我氏は坦々として皇位を狙っていた。隣の大国中国の例もあり、蘇我氏はその実現がこの国に於いて侮徳な陰謀であるとの深慮を払っていなかった。異論もあろうが私はその様に思っている。蘇我氏は異教の仏教により興隆しその仏教により滅んで行った。アシャカ王の皇子釈迦の唱える教えは西蔵、中国の中原・平原・半島を経て我が国にもたらされた。これは大乗仏教である。己を犠牲にしてあらゆる生類に恵みを施す。その為には己の命をも捧げる。見かえりを求めず、次第に心は無となり昇華して光悦の空間に安住すれば、それが悟りであり、即ち涅槃の世界である。つまり自身の本能を殺しおのれ以外の生類の本能を満たせ、との教えで理想の極限であり、凡人の意識では到底実行不可の教えであった。仏教に傾注する百濟の聖明王は、自国での布教を半ばあきらめたのであろうか、興隆著しい大和にて「是非布教に尽力しくれ、お願いをする」、と親書と共にその仏教を紹介したのだ。「この教えは長い、長い年を経て東の果ての国に到達する。その国で薫醸され、やがてこの国に我が教えが戻り人々に恵みをもたらす」。古いインドの経典にはそう釈迦が説いたと記されているそうである。聖明王はそれを知っていたのかも知れない。受け取った欽明天皇は百濟王の依頼であり百濟の出身である(著者はその様に考えている)蘇我氏にその扱いを命じたのだ。蘇我氏にしてみれば、その教えを育み、広く普及する努力が自族の生き残る道であった。蘇我稲目は傑物であったようだ、自らの娘達を積極的に天皇・皇子達の皇后・皇妃として皇統の親族としての地位を高めて行った。物部氏は連であった。連とは譜代の家臣を意味する。家臣からは皇后・妃を差し出す例外も無い時代である。その点で物部は不利に立たされたと云える。続く馬子もこの同じ方策をとり、ついに並ぶ者が無い絶大な権力を握った。高皇産霊の皇統出氏も蘇我氏出氏も同じ並びである。この血脈が何代も続けば、やがて蘇我皇統が出来るのでないか。稲目の後継者馬子にその思いが芽生えたとしても不思議でない。次代の天皇選びにもこの傾向が明かである。次代の本目と思われる皇子を選んでも、当たり前として感謝もされない。帝位に遠く低い血筋の皇子を選べば感謝の度の高く、その後は蘇我氏の言い成りとなり非常に扱い易い。しかし、その目論みは見事に失敗した。崇峻天皇殺害事件である。田村皇子・宝皇女を引き上げたのも同じ目論みでなかったか。物事は皮肉の結果を間々生むものである。その間に生まれた皇子中大兄が入鹿成敗の先頭に立つとは夢にも思わなかったのでないか。
山背大兄一族の殺害が蘇我氏の命取りになった。皇統の一族を私怨ともとられる一存で消滅に追いこんだ所業は、蘇我氏断罪の大儀名分を政敵に与えてしまつたのだ。前述したように山背は大乗の教の深い心捧者であった。天皇には向かない理念の持ち主であったが、大民(おおたみ)には絶大の人気があった。これは蘇我氏に取り決して良い事ではない。今のうちにその芽を刈った方が良い。入鹿の若さから来た大失策であった。大乗仏教で栄え、大乗仏教を排除した事で滅ぶ。蘇我氏のみが描いた太平の夢は、今の世でも中々逆族の烙印が取れない。法隆寺の前身斑鳩の宮の主、聖徳太子の影が影響しているのだろうか。

参考にした本
日本書紀 下 坂本太郎ら校注 :岩波書店
先代旧事本紀 大野七三校訂編集 :批評社
完訳 秀真伝 上 下巻 鳥居礼編著 :八幡書店
日本の歴史2 古代国家の成立 直木孝次郎 :中央公論社
日本人の仏教3 仏教の経典 田上太秀 :東京書籍
エコール・ド・ロイヤル5 斑鳩の白い道の上に 上原和 :学生社
エコール・ド・ロイヤル5蘇我一族 黛弘道 :学生社
エコール・ド・ロイヤル9 蘇我氏の栄光と陰影 門脇禎二 :学生社
エコール・ド・ロイヤル13 推古朝成立の頃 山脇幸久 :学生社
Let us Brush Up 古代日本史 歴史を捻じ曲げた蘇我氏の氏族コンプレックス 船越長遠 :文芸社
高天原と幻の飛騨王権 船越長遠 :幻冬社
太古日本の史実を考古学で探る 船越長遠 :冬青社




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