平穏な日々が過ぎて行きますが、ある年の四月一日、筑紫(今の福岡県)が常に不穏で、何か反乱が起きている不安があり、瓊瓊杵君は、今、鹿島神宮の祭神として祀られている大鹿島命に、滋賀県琵琶湖の南の野洲にある仮宮 (昔、思兼命と和歌姫夫妻の宮で、夫妻に恨みを抱いた素戔鳴尊が復讐の為、野洲川を遡上して畔にある宮で留守居の和歌姫と対峙し、和歌姫の説得で所謂契約(うけい)を交わした所・・著者の考察) を改築し瑞穂の本宮とせよと命じます。富士の朝間の宮では遠く離れ九州の事態の急変に間に合わないとの思慮だと思います。父君忍穂耳尊の逝去後未だ年が経ちませんが、母の千千姫(ちちひめ)は天照大神の居る伊勢の伊雑で日々の祀りの手伝いをしていました。瓊瓊杵君は箱根神社に参詣し幣(ぬさ)を捧げ、それより伊雑に行幸し報告の後、瑞穂の宮に移られました。君の三つ子の長男梅仁君は朝間の宮に残りました。天児屋根命は補佐として残り、大物主の子守神は瓊瓊杵尊に同行し瑞穂へ。三島の溝咋命が代わりに朝間の宮に補佐役で入ります。新治の宮の二男酢芹尊は鵜川の仮宮跡に新築しそこに移ります(滋賀県高島郡の鵜川村)。日光二荒山にいた三男卯津杵尊は今の大津市のシノ宮に移りました。移動の時鵜川の仮宮に咲いていた卯の花から自分の卯津杵の名が付けられた事から鵜川の宮に入りたいと父君に願ったのですが許されませんでした。 この後瓊瓊杵君は再び新田開発の為、山陽地方を巡幸され井堰や堤を築き、山陰にも足を伸ばし井堰を築いて高田を作り瑞穂の宮に帰ります。 シノ宮の卯津杵尊は依然として九州が不穏のため筑紫に行きたいと再び懇願します。日頃の言動から卯津杵尊は父君に似て行動的な気質の様に感じます。瓊瓊杵君は此度(こたび)はそれを許し、筑紫の治君とする勅を下します。これは兄達を越えた抜擢(ばってき)でした。そんな思惑が有ったのでしょう、卯津杵尊は富士の朝間の宮に挨拶を兼ねた別れを述べに行きます。しかし話はすっきりとはいかなかったようです。長男の梅仁と卯津杵尊の二人は瑞穂の父君に相談を兼ね挨拶に参内をします。兄弟が不仲に成るのを感じ取ったのでしょう、瓊瓊杵君は「筑紫はどうも食料が足らない様だ。それで不穏が続くのであろう。私が自ら行って田を開こう。私の代わりに梅仁は瑞穂(みずほ)治(を)君(きみ)となれ。天児屋根と大物主の子守はここに留まり梅仁を補佐せよ。卯津杵と酢芹は供に北の津(敦賀の事)に行き、海からの進攻に油断せぬように。伊著沙別の宮(今の敦賀市気比神社の所)があるからそこを根拠にして二人で仲良くしてくれ」と言われ事が決定しました。 瓊瓊杵君は西の宮より帆かけ船に乗り九州の宮崎県日南市鵜戸(又は東臼杆郡宇戸崎)に着き筑紫を巡視して井堰や堤による新田を開き、農耕の技術を教えます。各地から援助の求めが集まり福岡県・鹿児島県にも歩を伸ばし三年の間献身的に心を砕き、筑紫地方は見違える様に田畑が整い作物による心配は解消し、瓊瓊杵君は瑞穂の宮に帰還され、留守居の梅仁君は富士に帰ります。 古事記・日本書紀はこの項を引き出し、高千穂の峰の降臨を前面に押し出し、日本国の創世が何か大陸・半島に関係あるがの如く導くような意図が推察されなくもありません。 さて山彦・海彦の話は戦前の国定教科書にも載り、高齢の方の間で知る人が多いと思います。年代の若い人の間でも多く知られて居る様に感じられます。しかしその奥の意味の解析は絶無と思います。では其れに関し私の推論を試みます。日本書紀にはこの項は詳しく述べて居ますがその文流は秀真伝の記述と大変似ています。書紀の編集者達が秀真伝を熟知していた証拠とも思われます。では日本書紀と秀真伝の行間を読んで行きましょう。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||